中原淳一ってどんな人?そのデザインと着物の世界
喫茶店のクリームソーダに、アデリアの食器…そのポップな色使いに胸をときめかせる方も多いのではないでしょうか? 昨今の昭和レトロブームは目を見張るものがあります。 当時の文化や雑貨デザインが令和の時代に復刻し、街にあふれ、リバイバルで流行っていますね。 "令和の時代には珍しい独特なニュースタイル"として人気を博している理由とは何なのでしょうか? その魅力を紐解いていくために欠かせない人物がいます。 戦後の日本で一世を風靡した画家中原淳一(1913-1983)です。今再び注目を集めている昭和デザインの象徴です。生誕111年を記念した展示会が全国各地で開催されるなどなぜ今もなお彼の世界観が多くの女性を惹きつけて止まないのか…さっそく読み解いていきましょう!
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- ◆中原淳一ってどんな人?
- ◆中原淳一の人生
- ◆影響を受けた人、与えた人
- ◆コラボレーション
- ◆昭和デザインの特徴とは
- ◆最後に
◆中原淳一ってどんな人?
ひとえに検索してみても多くの情報がヒットすると思います。 画家?ファッションデザイナー?人形作家?いったい肩書は何なのでしょう? 答えは"全部"です。 どの表情もすべて間違いなく中原淳一の姿なのです。 今でいうマルチクリエイターと表現する方がいいのかもしれません。 ではなぜその活躍は多岐にわたるものなのか、彼の歴史をたどると分かっていきます。
◆中原淳一の人生
1913年(大正2年)香川県に生まれます。 この年の出来事として
・のちの宝塚歌劇団となる宝塚歌唱隊が設立
・森永のミルクキャラメル発売
などがあります。
兄と姉二人という多くのきょうだいと共に育ちます。 幼少期は姉たちと西洋人形をつくることが大好きでした。 デザインや創作に興味を持った淳一は日本美術学校に入学して西洋絵画を学びます。 卒業後は上野広小路の高級洋品店のファッションデザイナーに抜擢され就職。 ファッションやデザインを生業として活躍している姿は当時の女性たちの憧れであり、また現代を生きる私たちとも共通しているかもしれません。 その中でモデル撮影が行われる時は自らメイクを施したというこだわり。 また清潔感のために淳一自身も薄化粧をしていたとのことです。 令和の時代では多くなったメイク男子の先駆けなのかもしれません。 そして幼少の頃に夢中になったフランス風人形の個展を開催します。 多くの新聞雑誌にて絶賛され、このイベントがきっかけで一躍有名となり雑誌「少女の友」の挿絵画家として専属契約を結びます。 この「少女の友」という雑誌ですが淳一の挿絵をはじめとしたスタイルブック、連載の読み物や、宝塚歌劇団の記事が掲載されていました。 モデルのスタイリング写真や連載、人気のタレントやアイドルの記事など現代の雑誌とあまり変わらないですね。 なんと48年間続いた月刊誌でもあり日本の出版史上もっとも長く刊行された少女雑誌です。 この記録はいまもなお破られておらず、その人気の高さがうかがえます。 さてこの雑誌が発刊された当時の日本は世界各国との戦争真っただ中。 そんな時代に大きな瞳に長いまつげ、細長い手足など西洋的な少女像を描き続けていた淳一。 これまでの浮世絵のような美人画ではないその絵はひときわ異彩を放ちました。 戦争に勝つために贅沢を悪としていた当時、優美な淳一の絵も軍部から非難を浴びることとなります。 のちに軍当局の干渉により「少女の友」を降板することとなってしまいます。 しかしそんな激動の時代から少女たちを救ったのも淳一です。 それを象徴するようなエピソードがあります。 「伊豆の踊子」で知られる川端康成はこの「少女の友」に読み物を寄稿していました。 その挿絵を淳一が担当しており、戦争で疲弊した少女の心に寄り添うクリエイティブに"戦後の少女の光"と称しました。 ここまで聞くと洋服のデザインばかり携わっている印象があるかと思いますがそうではありません。 和装に関わるイラストも多く手がけています。 特に同時代に活躍した洋画家の松野一夫とともに、雑誌「新女苑」の付録冊子「新衣裳読本」の挿絵を務めました。 淳一は和装画を担当し、着物においてもそのセンスが光る着こなしを掲載しています。 こんな言葉が残っています。 「どこの国を見ても自分の国の服装を持たない国はありません。和服を生み出した当時とはがらりと生活が変わってしまったのだから、洋服を着ることになったのは当然としても、私達が自分の国の服装をすっかり捨ててしまうのは悲しいことです。きものは日本人のために、日本人のいろいろな条件に合わせて、長い間ためして、日本人が美しく見えるように出来上がったものなのだから、やっぱり日本人は、きものを着るべきだなとつくづく思うのです。」 大正~昭和といっきに欧米諸国の文化が流れ込んできました。 それを普及するようなデザインを多く生み出してきましたが、だからこそ自国の服装の魅力を一番理解し、重んじていたのは彼だったのかもしれません。 その後、淳一は結婚をします。 その結婚相手は元・宝塚歌劇団の男役トップスターの葦原邦子。 "男装の麗人"と称されたその凛々しさ美しさに多くの女性が心を奪われ高い人気を誇りました。 ぜひ一度"葦原邦子"で画像検索をして欲しいのですが、どこか淳一の絵とリンクするような、少し似た感覚思わせる雰囲気をまとっています。 二人の間で美意識が共鳴していたのかもしれませんね。 なにより宝塚の男役というのは長年女性の憧れとして君臨しています。 そこに理解や共感していることも淳一の女性からの支持につながっているのかもしれません。 それからはというと終戦からちょうど一年後の1946年8月15日、自身が編集長を務める雑誌「それいゆ」を創刊することとなります。 「女性のくらしを新しく美しくする」というキャッチコピーもとに内容は美容、インテリア、手芸、文学、音楽、美術…と美に関するトピックスをあますことなく紹介。 これらに造詣が深く多才な淳一だからこそできた内容であり、これがマルチクリエイターといわれる所以だと思います。 すこし内容を紹介すると
・コーディネート紹介
・ヘアアレンジの方法
・残り布で作ったカーテン
・手紙の収納豆知識
などくらしに関係するデザインも手掛けていました。 戦後の貧しい生活に"こういう工夫で生活が豊かになる"ヒントを読者へ提案し続けました。 現代版の #丁寧な暮らし とでも表現できるのはないでしょうか? いつの時代もライフスタイルを満ちたものにすることで幸せに近づいている…そんな思いを支えてくれる一筋の光だったと考えます。 「それいゆ」とはフランス語で太陽という意味。 まさに戦後復興のための太陽のような存在だったはずです。 この「それいゆ」が20代の女性をターゲットにした婦人雑誌とするならば、それより若いティーンエイジャー向けの月刊誌「ひまわり」や「ジュニアそれいゆ」をその後は創刊します。 幅広い年齢に向けて、多岐にわたる仕事をこなしていくうえで淳一は体調を崩すようになります。 入院や療養を繰り返しながら何とか創作活動を続けましたが1983年4月19日、70歳にてその生涯に幕を下ろします。
◆影響を受けた人、与えた人
中原淳一は大正時代に活躍した竹久夢二の影響を受けたといわれています。 この夢二も大正という西洋の文化が到来したその時代に和洋どちらの良さも取り入れた美人画が人気を博しました。 まさに"大正ロマン"を象徴する画家です。 今度は影響を与えた人物についてです。 ファッションデザイナーの芦田淳は実際に淳一に弟子入りしています。 そのエレガンスなデザインで皇室の専任デザイナーとなります。 華やかなドレスはもちろんのことワンピースやスーツなど実用的なデイリーウエアも展開しており、私たちの憧れのブランドとして輝きを放ちます。 またファッション界でいうと高田賢三(KENZO)や森英恵(HANAE MORI)、コシノジュンコ(JUNKO KOSHINO)らも影響を受けたとのことです。
◆コラボレーション
多くの影響を与えた中原淳一。我々キモノハーツもその薫陶を受けています。今回、淳一の描くふたつの着物絵を振袖で再現しました。ハタチの成人はもちろん、ぜひ中原淳一ファンの皆様にも袖を通していただきたいです。当時の質感をそのまま表現できるよう慎重に染色の確認などを繰り返し、小物の再現にもこだわったスタイリングをぜひご覧ください。
[KH-471]
先ほどお話にもありました雑誌「少女の友」の表紙を飾った絵を再現しました。
なんといっても朱色に浮かぶ白色の梅が印象的。 コロンとした丸みを帯びたモチーフが可愛らしさを増します。 元絵の梅のふちがじゅわっと描かれている部分を表現するために、染めた時に生じるぼかしのようなデザインに。 葉部分の色も再現に注力し、青緑の独特な中間色がかないました。 なかでも帯の再現には自信があります。 絵からそのまま飛び出してきたような仕上がりにしたかったので試行錯誤を重ねました。
総柄のため背面の飾り帯まで華やかに仕上がります。 ヘアスタイルも当時では珍しいパーマをあてたボブスタイル。 後頭部に大きな赤いリボンをそえて洋風な佇まいに。 ぜひ口紅は淳一の絵の象徴である、丸みを帯びたリップラインにトライしてみてください。
[KH-470]
深い赤色×からし色×濃緑色とモダンな色づかいがなんともおしゃれ。 この象徴的な色彩を再現するために多くの時を重ねました。 振袖が色とりどりな分、帯を柔らかい色味にすることでバランスよくまとまります。
色の切り替わり部分のぼかしにもぜひ注目してください。 また縦のラインを強調するようなパターンの切り替えはスタイルアップして見えます。
丸い実のようなモチーフとそこにそえた草葉が慎ましく麗しい。 筆で描いたような図柄は珍しいので、自分らしさを大切にしたいあなたにぴったりです。
ヘアスタイルも貴婦人を思わせる縦巻きロールのボブスタイルで小粋に。 アイシャドウのブルーが涼し気な目元を表現。 この振袖を身にまとった際にはぜひ淳一の絵と同じポーズで撮ってみてください。
◆昭和デザインの特徴とは
さて争いの時代だった昭和ですが、どうして現代にも愛されるポップなデザインが多く世に出たのでしょうか。
日本は開国を期に、欧米諸国の文化が多くもたらされました。 そこで生まれたとても華やかな和洋折衷のデザインは大正に広まり、昭和においても受け継ぎ存在していました。 しかし戦争がはじまると勝つためには贅沢しない→質素を求められることとなります。
戦後は敗戦から立ち直ろうと高度経済成長を迎えます。 インフラが整備され経済が潤うとデパートやホテルが立ち並び、家電製品など生活必需品が多く買い求められるようになりました。 これまでと変わり女性の社会進出もあいまって大正よりもさらに大衆にその多くが浸透していきました。 消費者が増えたので購買意欲を高めるために今までにはない鮮やかな、デザイン性の高いものが求められるようになっていきます。 そのとき生まれた独特な色づかいが昭和デザインという文化として確立し、現代にリバイバルブームを起こしているようです。 キモノハーツでは当時のポップなデザインをテーマに展開した「レトロモダン」という振袖ブランドがあります。 昭和レトロ好きな方はぜひこちらも併せてご覧ください。
◆最後に
今年は中原淳一生誕111年目ということもあり、今後も全国で展示会が予定されています。もしその作品や生き方に感銘を受けた、興味を持ったという方はぜひ足を運んでみてください。以下「111年目の中原淳一展」公式HPです。
https://nakahara111.exhibit.jp/
展示物はもちろん販売されているグッズもおしゃれでかわいらしく、時を越えて愛されるデザインだと感じました。 まさに「"いつまでも古くならないもの"ーそれこそがむしろもっとも"新しい"ものだとはいえないでしょうか。人生はスカートの長さではないのです。」というキャッチコピーを体現しているのではないでしょうか。